2010年12月25日

播磨を本拠地にした平清盛。再来年、大河に登場

明石海峡大橋移情閣播磨神戸市垂水区

播磨を本拠地にした武将・平清盛が、再来年のNHK大河に登場します。

平清盛の巨大荘園(近畿農政局)
源平時代になると播磨・摂津一帯は平清盛の本拠地となります。清盛は太政大臣辞任に際しては印南野に大巧田(勲功のあった人に与えられた田。大巧田は永世私有が認められた)を得ていましたし、付近に多数の荘園を開発したり、播磨・淡路を平家一門の知行地にしました。
(中略)
平家の巨大な荘園“五箇荘(ごかのしょう)”は加古川宿に中心をおき、東は明石西郊、西は加古川を越えて西にまたがる荘園でした。
当時までの日本は西国が中心であり、海路・陸路とも交通の要衝にあった播磨国は、古くから国司の位としては最高位にあり、特に宋(中国)との貿易に力を注いだ清盛がこの地に本拠を置いたのは慧眼といってもいいのではないでしょうか。
清盛は摂津の福原に遷都し、平安京同様の宮都建設を目指しましたが、土地が狭くて短期間で断念。その際、印南野(加古川市)への遷都も検討したようです。

清盛の父・平忠盛は1145年、播磨守に就任しました。当時、播磨守は伊予守とともに最も格式の高い受領で、白河・鳥羽院政期に播磨守になった者の大部分が、伊予守に転じるか公卿に昇進し、他の国守に転じなかったといいます。

1156年の保元の乱を契機に清盛も播磨守に昇進。国内に強い影響をおよぼすことになりました。

清盛の墓所は、平家物語では経ヶ島(摂津・神戸市兵庫区)、吾妻鏡は播磨国山田(播磨・神戸市垂水区)としていますが、最近は播磨山田説が有力だそうです。

平家が播磨と密接に繋がっていたことを知ると、大河も面白くなるのではないでしょうか。

参考
平清盛で神戸PR 官民で観光推進組織設立(神戸新聞)
福原行幸(wikipedia) - 平氏政権は福原に隣接する和田(輪田)の地に「和田京」の造営を計画した。和田は現在の兵庫区南部から長田区にまたがる地域にあたる。当初平安京と同様の条坊制による都市を建設しようとしたが、和田は平地が少なく手狭だったため、すぐにこの計画は行き詰まってしまった。そこで同じ摂津国の昆陽野(兵庫県伊丹市)、更には播磨国印南野(兵庫県加古川市)に新しい京を造営する話が持ち上がったが、どちらの話も立ち消えとなり、7月には福原をしばらく皇居とし、道路を開通させて親平氏派の一部の人々に限り宅地が与えられることになった。(記事より)
兵庫県の歴史(山川出版社)
幻の加古川首都移転構想(372log@姫路)
「学芸員のぶらり遺跡散歩-清盛の墓所をもとめて-」舞子・山田川界隈を散策(ひょうご考古学トピック) - 「播磨国山田」というのは、西舞子の山田川沿いに当時あった「山田領」のことで、そこには清盛の別荘があり、高倉上皇も立ち寄ったとの記録がある。『高倉院厳島御幸記』には「庭には黒き白き石にて霰の方に石畳にし、松を葺き、さまざまの飾りどもをぞしわたしたる」と表現され、念入りに結構された邸宅の様子がうかがえる。日宋貿易に生涯を賭けた清盛にとって、明石海峡を見下ろすこの地こそが墓所にふさわしい(記事より)
  

Posted by miki at 00:00Comments(4)歴史