2010年10月18日

特急はまかぜの秘密

新型はまかぜ

JRの新型特急「はまかぜ」が、姫路神戸で公開されました。

新型特急「はまかぜ」一般公開 2千人が見学(長崎新聞)
JR西日本は17日、大阪鳥取間の特急「はまかぜ」として11月7日に営業運転を始める新型ディーゼル車「キハ189系」を、兵庫県の姫路駅と神戸駅で一般公開。家族連れや鉄道ファン計約2千人が詰め掛け、写真を撮ったり座席に腰掛けたりした。
さて、このはまかぜ。国家戦略にもつながる秘密があったのです。

特急「はまかぜ」のルートが示す兵庫の特性(NHK知る楽 歴史は眠らない 2009年4月1日(日本放送出版協会))
大阪から山陰方面に行くには別のルートで行ったほうが速いのですが、この列車はわざわざ神戸を通り、姫路を通って、兵庫県内を大回りして日本海側に出ます。実は「はまかぜ」は大阪の人が乗る特急ではなく、兵庫県民のための列車と言われていて、特に神戸の人が同じ兵庫県内に行くときに乗る特急なのです。
(中略)
4時間近くの走行時間のうち、ほとんど兵庫県内を走るのです。
明治政府は、新国家建設のため、外国と貿易ができる港を必要としました。そこで、大型船が入ることができる深さに恵まれた神戸に白羽の矢を立てます。

ただ、それまであった兵庫の港は国内専用港で、外国人向けにするには抵抗がありました。そこで、2~3キロ離れた場所に外国人居留地をつくり、そこに貿易港を新たに整備する必要が生まれました。

また、政府は、但馬や丹波産の絹や織物を神戸港から輸出するため鉄道を建設し、神戸を国際貿易港に育て上げようとしました。

江戸時代の神戸は寂しい寒村で、また政府にもお金がありません。そこで目をつけたのが豊かな播磨の生産力で、そこから上がる税金で神戸の港を整備し、鉄道を建設しようとしたのです。

明治政府は、摂津、播磨、但馬、丹波を含む地域を兵庫県として合併させ、このプロジェクトを見事実現させました。
このプロジェクトを現在でも象徴するのが、特急「はまかぜ」が走るルートというわけです。

参考
2011年春、特急「はまかぜ」に環境対応の新型車両(372log@姫路)
播磨とは
姫路の人が、播但線を支持しなかった理由(372log@姫路)


同じカテゴリー(鉄道)の記事
 リニア開通以上のインパクト (2019-11-09 11:33)
 幻の「京姫鉄道」が設立されていた (2019-10-11 00:00)
 鉄道ファンはレール好き (2019-08-15 00:09)
 山陽直通特急の行先が変わります (2019-07-30 23:52)
 関西でダントツ1位の兵庫県 (2019-07-24 21:55)
 忍たまとおでかけ山陽電車 (2019-06-27 21:08)

Posted by miki at 00:58│Comments(9)鉄道
この記事へのコメント
お久しぶりです。お元気でしょうか?

今じゃ姫路市民でも神戸市民からすれば
完全に田舎者扱い、お荷物扱いですよね。
私はもっともっと田舎の人間ですが
しかし高砂も1600年代初頭には姫路のお殿様の命令により
大阪や江戸に
この地域の全ての年貢を輸送する船の港を構え
それでかなり栄えていたわけで…。

本末転倒というか何というか
今の神戸市民を見ると
一人で大きくなったと勘違いしているドラ息子のようにすら感じます。
私や姫路市の友達といった播磨地域の者は
神戸の学校に通ってた学生の頃に
彼ら都会人に何度も何度も馬鹿にされてきましたから本当に今でも腹立たしく…。

個人的には、廃藩置県から今の兵庫県に到った歴史を
小学校や中学校で
兵庫県の全ての子供たちに教えれば良いのに、と思います。
Posted by 高砂市民 at 2010年10月18日 20:19
高砂市民

コメントありがとうございます。
神戸のいいところはたくさんあると思うので、そこはもっと活かしていくべきだと思っています。
明治の開国時代とか、神戸港の絶頂期など今よりも輝いていたときのイメージの資産を食い潰すようなかたちで生きているところがあるようなら、今一度、「神戸」の意義を思い起こしてもらって、いつも最先端であって欲しいと思っています。
Posted by miki at 2010年10月18日 22:20
「但馬や丹波産の絹や織物を神戸港から輸出するため」に但馬・丹波が兵庫県になっている説をとられていますが、この説は「何故丹後・丹波が兵庫県ではないのか」という疑問が生じます。

但馬が養蚕の盛んな地域であったことは間違いではないのですが、むしろ、現在でもグンゼ本社が綾部市にあったり、丹後ちりめんが地場産業として残っているように現在は京都府になっている丹後・丹波の方がより大きな産地でした。もし「絹や織物を神戸港から輸出するため」に同じ県にしておくことが必要なのであれば、明治9年の府県統合では豊岡県(但馬・丹後2国と丹波国の半分(3郡))は解体せず、あるいは丹波・丹後部分を兵庫県、但馬は鳥取県に編入する方が明らかに妥当だと思います。

兵庫県に但馬・丹波が含まれるのは、但馬国出身で元出石藩士の明治政府高官であった桜井勉と言う人物の意見が元になっています。

同氏の回顧談によると、府県の統合案を練っていた大久保利通から「豊岡県と鳥取県を合併させたいが、どうか」と意見を求められたそうです。これに対して桜井勉は「但馬が古来より、丹波、丹後、因幡、伯者と同じく山陰道に属し、中世も、二百余年の間、同じ守護大名、山名氏の支配下にあった歴史的背景から考えると、その合併はもっともな案ではある。しかしながら、但馬、因幡両国の間は山が険しく往来が不便であるため、むしろ鳥取県は島根県と合併し、豊岡県は飾磨県と合併させるのが適切である」と答えたそうです。
国家的な見地から、神戸港を発展させるために飾磨県は兵庫県に合併させようと考えていた大久保利通は、これに豊岡県を加えると大きくなりすぎるので難色を示したそうですが、桜井勉は「豊岡県のうち、丹波一郡と丹後は京都府に編入し、残る但馬一国、丹波二郡と飾磨、兵庫両県を合併をすれば、兵庫県は大きな県とはなるけれども、中間に大きな山もなく、交通も便利で、人々は皆幸せになるであろう」と進言したそうです。
これに対して大久保利通は「一府県の増減に過ぎぬが、人々が幸福になって、県庁ひとつを減らすことができるなら、一挙両得である」と賞賛したということです。

つまり、兵庫県に但馬・丹波が含まれるのは、「絹や織物を輸出するため」ではなく、「たまたま大久保利通の部下に但馬国出身の桜井勉という人物がいて、往来の便利さが考慮されたため」ということになります。
Posted by たー at 2010年10月23日 18:51
(続き)
鉄道史的に考えましても、疑問のあると思います。

神戸・姫路間に鉄道を引こうとする計画は明治15年頃から、播但線(播但鉄道)は明治20年頃の話で、府県統廃合の明治4年~9年~14年頃の話ではありません。明治20年頃であれば、府県統廃合や再置はとっくに終わっていますし、この頃には山陰鉄道、阪鶴鉄道や山陰縦貫鉄道などの様々な構想がありました。

山陽本線(山陽鉄道)については、神戸・姫路間の鉄道計画はいくつかの話が出るものの、なかなか進まないので、明治19年、内海忠勝兵庫県知事が旗を振り、小西新右衛門(伊丹)、伊藤長次郎(今市)、米澤長衛(明石)ら、西摂津・東播磨のそうそうたる有力者に諮って計画が一気に話が進んだようです。建設には、政府は山陽線を計画しており、利用者の多い神戸-姫路だけに私設することは認められず、山口まで敷設すること、後で官営にすることに文句を言わないことなどの条件をのんだそうですが。

播但鉄道は、元々は内藤利八(甘地)、内藤英太郎(甘地?)、浅田貞次郎(生野)ら沿線の有力者により、生野銀山の鉱産物を飾磨港に馬車鉄道で運搬しようと計画されたものです。鉄道事業に詳しい神戸の実力者・鹿島秀麿らに相談し、後に東京資本も入り、一時は姫路と舞鶴鎮守府とつなぐ計画にもなったのだそうですが、絹や織物の運送を意図して計画されたものではありません。

また、現在の山陰線の兵庫県部分ですが、早くから姫路と鳥取をつなぐ構想や、舞鶴から鳥取・米子などをつなぐ構想はあったものの、全国でも早期に私設で播但線が建設されていたことから、それを鳥取まで延伸すれば姫路と鳥取をつなぐことことができるため、建設されることになったそうです。また、京都鉄道・官営鉄道により、京都と福知山が結ばれていましたから、京都を起点とし、和田山から福知山(京都鉄道・官営鉄道で京都までつながっていた)をつなぐことで、現在の山陰本線となりました。

つまり、山陰本線の兵庫県部分は、もともと姫路と鳥取方面を結ぶことを主に計画がすすめられ、費用削減のために播但線が使われた、ということです。
なお、日本海新聞の以前の記事によれば、山陰本線の計画が具体化する明治後半まで、但馬は鉄道敷設計画の空白地だったようです。

それに、智頭急行ができた現在は兵庫県ローカルになってしまっている特急「はまかぜ」ですが、以前は智頭急行なんて存在しませんでしたし、大阪と鳥取を結ぶのは、福知山線などを経由するよりも播但線経由の方が早かったようですね。
例えば昭和50年頃ですが、福知山線経由は昼間の特急「まつかぜ」、夜行の急行「大山」がそれぞれ1往復でしたが、「まつかぜ」の補完するために設定された「はまかぜ」は、大阪と鳥取・倉吉・米子を昼間に3往復以上でつないでいました。
つまり、「はまかぜ」は現在の「スーパーはくと」にあたるものだったわけです。
Posted by たー at 2010年10月23日 19:03
(続き)
また、確かに、「兵庫港」として開港した「当時の神戸」は寒村でしたが、「当時の神戸」は現在の三宮から元町近辺のことで、「現在の神戸」は東灘から岩岡・有馬などにかけての広大な地域です。
また「神戸は寒村だった」とはいわれるものの、街道沿いであり、300軒くらいの家屋があったそうで、町と比べると少ないですが、それなりの人のいた地域ということになります。

江戸幕府が当初開港しようとしたのは兵庫津のあった「兵庫」で、江戸末期の人口が2万人あまりの大都市です(参考:明治22年に姫路市ができたときの人口が約2万5千人)。大輪田泊・兵庫津(現在の神戸港の西部)は古くから摂播五泊の一つであったり、日宋・日明貿易の拠点港だったりしましたし、鎖国の江戸時代は西回り航路の要衝として栄えていました。また、江戸時代は鎖国政策がとられており、国際港は江戸から遠く離れた長崎、強いて挙げるなら琉球王国に限られていましたので、それ以外は「国内専用港」なのはあたりまえのことです。

兵庫港開港は、地元有力者からの反対もあったようですが、最も問題となったのは「兵庫」が京に近い朝廷から強い反対にあったためで、他の4港より開港は数年遅れることになります。後に英国公使パークスが鯉川から生田川付近にかけて(神戸付近)の地形の方が良好と進言したこと、居留地などを作る土地が容易に確保可能で、かつ日本人と異国人とのトラブルを避けやすいことことなどのさまざまな理由から、幕府は「兵庫」の近隣の当時寒村だった「神戸」、「二ツ茶屋」、「走水」(のちの「神戸町」)付近に「兵庫港」を開港させたのです。

「兵庫港」が開港した神戸付近は急速に発展し、また明治になると状況も一転し、兵庫町・神戸町両町と坂本村が「神戸区」として一体化され(明治12年)、さらに神戸区は近隣2村と合わせて神戸市(明治22年)ができたときの人口は約13万人、つまり神戸は姫路の5倍以上の巨大都市でした。

また、江戸時代の西宮、今津、御影なども工業都市として経済的に豊かな地域です。元々は尼崎藩の藩地として発展していきましたが、1767年の上知によって、尼崎藩は、西宮、今津、御影、兵庫津など1万4千石と引き替えに、播磨国内に1万9千石に与えられ、形式的には4万石から4万5千石への加増となりました。ところが実際は、アマペディアによれば尼崎藩が失ったのは実に5万石にも相当したのだそうで、経済基盤を失った尼崎藩の財政は急激に悪化していったそうです。

「江戸時代の神戸は寂しい寒村」だと、「兵庫県が貧しかったので周辺を編入させた」かのようにミスリードさせる説明ですが、当時の兵庫県が他府県と比べて貧しかったわけではなく、政府は府県のリストラ(府県統合)を進めていましたし、また神戸港発展と言う巨大国家プロジェクト(当時の負担は基本的に該当府県)を支えるには兵庫県(西摂津)だけでは力不足なので播磨などからの税収が必要であったということです。
ちなみに、国税庁によれば、明治時代後半の国税は酒税によるところが大きかったそうですが(明治32年度には実に35.5%)、伊丹・灘などを有する兵庫県からの酒税収入はずっとトップで、明治終盤にはダントツだったようです(明治45年度、2位福岡県の487万円に対して、1位兵庫県は3倍近い1352万円)。

府県統合では同じ摂津国の大阪府(東摂津)とをくっつけるのが妥当だったのではないかと思うのですが、商都大阪や、西宮、神戸港などを有する摂津国を一つにすると経済的に突出してしまうので、明治政府は、明治4年終盤の府県統合で他府県が1国以上に再編される中、摂津国は大阪・兵庫両府県と小さく2分割され、明治9年の府県統合でもそれが踏襲され、兵庫県には飾磨県(播磨)、大阪府には堺県(河内・和泉・大和)に白羽の矢が立った、と聞いたことがります。

ところで、NHK知る楽の解説では、大阪から明石の間には大きな城がなかったように記されているそうですが、実際は尼崎藩の尼崎城がありました。尼崎城は、天下の名城である名古屋城に匹敵するとまで言われた城で、規模も大きかったそうです。最後の尼崎藩の藩主であった桜井氏は明治新政府の施策に積極的であったことなどもあって、ほとんど跡形もなく破棄されてしまったようです。
Posted by たー at 2010年10月23日 19:15
たーさん

コメントありがとうございます。

>NHK知る楽の解説では、大阪から明石の間には大きな城がなかったように記されているそうですが

「大阪から明石までの東海道線の沿線、山陽線の沿線には大きな城跡は1か所もありません」
とあり、「なかった」という表記ではありません。

>国税庁によれば、明治時代後半の国税は酒税によるところが大きかったそうですが(明治32年度には実に35.5%)、伊丹・灘などを有する兵庫県からの酒税収入はずっとトップで、明治終盤にはダントツだったようです

NHK知る楽には、「明治13年、播磨が納めた国税の納税額は全国でもベスト3に入る金額でした。地方税でみると播磨の納税額は約26万円にのぼりましたが、摂津は10万円、・・・」との記述があります。

明治の前半は播磨が、後半は摂津が頑張ったってことでしょうかね。
Posted by miki at 2010年10月24日 19:41
「城跡」でしたか。明治6年の廃城令ですっかりなくなってしまいましたが、尼崎城は次のような絢爛な城だったそうです(1767年の上知以降は修繕もままならなかったそうですが)。

http://www.amashin.co.jp/kaikan/p5/index.html

酒税が国税となったのは明治29年で、それ以前は府県の収入だったそうです。明治11年に兵庫県では44.5万円の酒税収入があったとのことです。

http://www.nta.go.jp/ntc/sozei/tokubetsu/h21shiryoukan/01.htm
Posted by たー at 2010年10月25日 00:18
たーさん

コメントありがとうございます。
Posted by mikimiki at 2010年10月26日 01:08
税収ですが調べましたところ、従来の年貢から、明治6年の地租改正で土地に税金がかかるようになり、明治初頭の国税収入はそれがほとんど(9割程度)を占めていたようですが、土地の価値として農産物の収穫量が大きかったそうです。
土地・特に平野が広大で江戸時代から農産豊かな播州からの税収が多かった、というところではないでしょうか。北播は山が多くて面積当たりの税収が少ないことを考えても、播磨:西摂津の面積比は3.6:1くらいの違いがありますから、面積の小さな摂津では、明治13年の国税収入比(26万円:10万円)くらいの差が出るのだと思います。

播磨地域からの国税収入は兵庫県全体の52%だったことから、残りの但馬・丹波・淡路の各地域合計の国税は約14万円程度だと思われますが、面積的には播磨程度ありますけれども、こちらは低いですね。但馬は山ばかり、淡路は水源の確保が難しいので収穫が少なく(税金が低く)、比較的平地が多い丹波は2郡しかなI(面積が小さい)ので、播磨に比べてかなり少なかったというところでしょうか。

ちなみに、所得税ができたのは明治22年だそうで、おそらくこれ以降、商工業が発展する摂津地域からの国税が大きくなっていくのだと思います。


多少異なりますが、こちらに解説(第3次兵庫県(明治9年7月~))がありました。ここにある「開港場である兵庫県の力を充実させるように考え直せ」は、回顧録をかんがみるに「開港場である兵庫県の力を充実させるために飾磨県は兵庫県と組み合わせるべきだから、豊岡県と飾磨県の組み合わせはだめだ」ということなのだと思います。

http://web.pref.hyogo.jp/pa13/pa13_000000013.html
Posted by たー at 2010年10月30日 14:36
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。