2011年10月25日

生まれは飾磨県庁のあたりです

姫路赤十字病院姫路市下手野

「どこの生まれ?」と聞かれたとき、厳密に言えば、生まれた病院の場所を答えるのが正しいのでしょうか?
それなら私は、「姫路市龍野町飾磨県庁があった場所です」ということになります。

今宿循環線の神姫バスによく乗るのですが、「琴岡町」というバス停があります。ここは以前「日赤病院下」という名前でした。10年前まで、近くに姫路赤十字病院、いわゆる「日赤(にっせき)」があったからです。
日赤の前身・兵庫県立病院が、1900年から旧飾磨県庁の建物を利用する形でこの地に移って来ました。

史跡めぐり・飾磨県庁址(船場城西の会)
廃藩置県により姫路藩地においても検討がなされ明治4年(1871年)姫路県が発足した。しかし大きな見地から飾磨県にしようと言う事になり、この地に飾磨県庁舎が建てられ行政の中心地と なった。しかし直後に神戸には開国にふさわしい港が有るので県庁所在地を神戸に移し兵庫県と定めた。飾磨県廃止後、立派な庁舎跡では第1回姫路市議会が開かれたとある。
そののち、姫路赤十字病院となり、平成14年の病院の移転まで地域医療の要として地域のみならず姫路市の医療に大いに貢献されていました。
姫路初の洋館として1876年にこの土地に飾磨県の新庁舎を完成させたのにも関わらず、同年に兵庫県に統合されて飾磨県そのものが廃止。新庁舎は無用の長物と化したのでした。

新庁舎建設場所に関して国と飾磨県の間で揉めに揉め、やっと完成したと思ったら県が消滅では、当時の姫路の人間は、さぞや怒りに満ちたでしょう。
ましてや、(明治政府はお金が無かったので、)建設費の多くを、地元姫路が出したとか。

絶大な資力の飾磨県(=播磨)が、お金のない政府を支えるという構図は、今も昔も変わらないですね。

参考
姫路県・飾磨県(オイスターギャラリーうらべ) - 飾磨県の諸業務は旧姫路藩役所で始まったが、不十分な建物設備であったので、大蔵省へ建て替えの要望書が出されること15回、ようやく明治9年に姫路城の南西の地である薬師山にモダンな県庁が建設された。ところが、新県庁舎の建物完成に喜び湧き、落成式を終えた翌日の8月21日、岩倉具視名で飾磨県全域と、豊岡県に属した但馬全域と丹波の一部、それと四国の名東県の淡路島全島を、摂津の一部地域(現神戸・阪神間)をエリアにした兵庫県に併合させる旨の通達が出された。こうして新庁舎完成に湧く飾磨県舎は、一夜にしてお役御免「無用の長物」と化した。(中略)当時の地方税、摂津が約8万円、但馬が約4万円、丹波は約3万円、淡路は約3万円、これに対して播磨は約22万円、圧倒的に播磨が経済力において優れていたことがわかり、これが分離独立できなかった理由の定説である。(記事より)
播磨とは(372log@姫路)

B-1グランプリ in 姫路 まで、あと18日


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Posted by miki at 00:00│Comments(0)歴史
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