2009年09月25日

和紙の一大産地だった播磨

杉原紙研究所播磨多可町

7世紀後半、播磨は、出雲美作美濃越前尾張と並ぶ製紙の先進地域で、播磨でつくられる紙は、播磨紙(はりまがみ)と呼ばれていました。

その後、平安時代には杉原紙(すぎはらがみ)と呼ばれるようになり、鎌倉では公文書用紙になりました。

杉原紙の歴史(杉原紙研究所)
鎌倉では、杉原紙は御下丈紙とか公文紙と呼ばれ、公文書用紙として用いられていました。 初めは幕府がもっぱら使っていましたが、次第に武家社会全般にも普及し、「武士は杉原紙以外の紙に文を書いてはならない」とされるようにさえなりました。
その後、室町江戸で全盛になりましたが、明治以降は衰退しました。

現在の播磨・多可町には杉原紙研究所が造られ、一時期途絶えていた紙すきが復元されています。製品も販売されています。

参考
道の駅 R427 かみ - 杉原紙研究所のお隣にある道の駅では、地元の名品・播州百日どりを使った定食を食べることができます。

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります
  

Posted by miki at 01:18Comments(0)TrackBack(0)歴史

2009年06月27日

松平キャスターが、黒田官兵衛の故郷・姫路で語る

 

姫路城生まれの黒田官兵衛(如水)をテーマにした講演会が姫路市市民会館姫路市総社本町)であります。

大河ドラマ誘致に向けた「松平定知氏講演会」参加者募集(姫路市)
播磨の生んだ智将・黒田官兵衛を主人公にした大河ドラマを実現させようと、姫路市では黒田家ゆかりの都市や関係団体とともに、さまざまな誘致活動を展開しています。その一環として、NHK放送番組「その時、歴史が動いた」の中で官兵衛を紹介し、自らも官兵衛を尊敬するというNHKキャスター・松平定知さんの講演会を開催。参加者を募集します。
松平氏は、戦国武将松平定勝の末裔とのこと。
姫路藩初代藩主の松平忠明とは、やや系統が異なるようですが、松平性は馴染みがありますね。

この講演会が、大河ドラマ実現への歴史を動かす「その時」になるのでしょうか。
8月23日(日)13時30分~15時00分に姫路市市民会館大ホールで。7月31日までに観光交流推進室に申し込みが必要です。

参考
その時歴史が動いた:黒田如水(テレビ批評的視聴記)
天才軍師 黒田 官兵衛(エクアール2) - これだけの活躍をしているにも拘わらず、ドラマで主役になることはないですし、戦国時代に興味のない人には全くと言っていいほど知られてないです。戦国が好きな人はほぼ100%知っているけど。この人の話を大河ドラマでやったら面白いと思います。(ブログより)
NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」を誘致する会。会長は姫路市長(372log@姫路)
その時歴史が動かなかった(372log@姫路)
姫路生まれ・黒田官兵衛を大河ドラマに(372log@姫路)
黒田ブーム到来か?(372log@姫路)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります
  

Posted by miki at 09:29Comments(0)TrackBack(0)歴史

2009年06月05日

全国3位だった播磨の税収



4月のブログで、NHK・知る楽の「歴史は眠らない」で播磨が取り上げられたという話題を書きました。

明治初期には寒村だった神戸に、国策として港をつくるため、豊かな播磨の税収を当てにされたという話でしたが、NHKのテキストによると、当時、播磨の税収は全国でもベスト3だったそうです。
明治13年(1880)、播磨が納めた国税の納税額は全国でもベスト3に入る金額でした。
(中略)
播磨の財力の源は、播州平野が産する米、そして江戸時代から営々と育て上げてきた、塩、綿、醤油など各種の特産品です。
江戸時代には、播磨一国を1つの藩にまとめてしまうと力が強すぎるということで、分割統治していたのですが、それでも姫路藩明石藩は立派な城をつくるぐらいお金があったとしています。

そういえば、現在の兵庫県でも、播磨は中播磨西播磨東播磨北播磨と、4つの県民局に分割統治されていますよね。

日本は近代化を廃藩置県によって達成しましたが、現在議論される道州制は、この「県」という単位をもう一度見直そうとするもので、著者はこうした流れを歴史の必然かもしれないと述べています。

播磨は県の呪縛を解かれて羽ばたくのか。それとも、道州制国家成立の過程で、再び国家戦略の犠牲になるのか・・?

参考
播磨とは(ひめナビブログ)
なぜ兵庫県は不自然に大きいか(商工会議所報)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります
  

Posted by miki at 00:00Comments(0)TrackBack(0)歴史

2009年04月07日

兵庫県の謎。全国でも例のない強引な合併



NHK知る楽という番組で、「県境の謎を行く」というシリーズをやっています。

県境の謎を行く(NHK)
私たちはふだん、県境を当たり前のように受け止めているが、実は県境が完全に画定しているのは、全都道府県の半分に過ぎない。
(中略)
県境とは一体いかなる経緯で今日に至っているのか。そのほとんどは、廃藩置県の際に明治政府が数回にわたる強引な線引きをして出来上がった。
4回シリーズの第1回は"多国" 県の陰に国策ありと題して兵庫県が取り上げられています。
明治政府主導の下、全国でも例のない強引な合併が断行された結果だった。政府はなぜ大きな兵庫県にこだわったのか。そこには、近代化を急ぐためのある国策が潜んでいた。
兵庫県は北は日本海から南は瀬戸内海までの広大な面積と多種多様な文化的背景を持った地域の統合体で、兵庫合衆国などとも言われます。
統合の背景には、明治政府の国策があったのですね。

番組は3月31日に放送されたみたいですが、今日の5時35分からNHK教育の地上波で再放送されるようです。

参考
播磨とは(ひめナビブログ)
なぜ兵庫県は不自然に大きいか(商工会議所報)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります
  

Posted by miki at 00:32Comments(0)TrackBack(0)歴史

2009年03月12日

加古川だけではない。岡山遷都案も。

国宝・鶴林寺播磨加古川市

以前からブログで加古川遷都を話題にしてきました(こことかここ)が、このたび神戸新聞が記事にしています。

加古川への遷都計画があった!?研究者が学説紹介(神戸新聞)
兵庫大経済情報学部の金子哲准教授が「加古川遷都論」と題して講義。平氏政権下で持ち上がった印南野遷都論の歴史的背景を説明し、加古川の水運▽瀬戸内海海運の拠点港の存在▽日本海へのアクセスの地政学的メリット-などが考えられると紹介した。
また、関東大震災後の首都移転計画でも、加古川が候補地に上がったことを説明。
今も昔も播磨の地政学的メリットは大きいと思います。とくに太平洋側にありながら、日本海アクセスにも容易なところ。

岡山も結構いいんじゃないかと思っていましたが、やはりありました。

日本「40年代、東京から竜仁に遷都する計画だった」(中央日報)
1940年代の初め、15年後を目標に立案した秘密国土計画である「中央計画素案」で、京城部(ソウル)南の郊外、日本内岡山福岡など3カ所を大東亜圏の首都移転候補地として提示した。
当時日本は、大陸進出のさらなる拡大を考えていたので、気持ちが西へ西へと向いていたんでしょうか。岡山、福岡に加え、ソウルまでも遷都候補地だったのですね。

アメリカへの輸出一辺倒から、東アジア新興国へ交流の軸足をシフトする中で、再び西向きの姿勢を強めれば、首都移転候補地選びもやや変わってくる気がします。日本列島全体の重心から考えれば、播磨・加古川、岡山、福岡の3都市の中では播磨・加古川が優位かも・・。

前出の金子教授は、加古川遷都について「今後も首都の候補地になりうる可能性はある」と力説されています。

参考
姫路は、世界の大動脈へのアクセス拠点(ひめナビブログ)
日中韓で東アジアを先導。注目される西日本の優位性(ひめナビブログ)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります
  

Posted by miki at 00:00Comments(2)TrackBack(0)歴史

2008年08月19日

未来に引き継ぎたい姫路の風景



姫路市が景観保護に力を入れています。

風情ある町並みに外観改修 姫路・野里(神戸新聞)
姫路市は町家の外観を改修し、風情ある町並みを取り戻す社会実験を始めた。野里地区にある実際の町家をモデルに、モルタル壁を漆喰(しっくい)に塗り替えるなど改修工事に十八日から取り組む。
城下町にふさわしい町並みを整備し、観光振興や地域活性化を目指す市の「ひめじ城下町再生プラン」の一環。
姫路城の周りや野里地区だけでなく、姫路には古くからの村落と新興住宅が同居していて、村落には古い農家が多くあります。土壁とか焼き板の壁の家が多くあり、播磨地方ならではの木造家屋も多くあります。

日本一立派な屋台神輿や世界一の木造建築であるお城を造って来た技術がその辺にぎっしり詰まっているような気がしないでもありません。
いま一度、近所の風景を見直してみて、気になることがあったら姫路市に知らせてあげましょう。

未来へ引き継ぎたい景観を募集(姫路市・景観遺産)
募集対象

夏に見ることができる「未来へ引き継ぎたい景観」の写真を募集します。
ここでの「景観」とは、建物や祭りそのものではなく、それらが山や海・町並みなど地域の風景と一体となったものを指し、地域の特色ある景観を広く募集します。
姫路市内の、誰でも立ち入ることができる場所から眺められる景観に限ります。
お散歩PhotoAlbumというサイトに、姫路など播磨の家の壁の写真が掲載されています。(下記はサイトより引用)
板を隙間なく張る羽目板張りの塀。縦長に板を張る縦羽目は、播州一円でよく見られます。
この塀は、表面を焼いて炭化させた焼板を張ってあります。さわると手が汚れるのに、なぜわざわざ表面を焼くのかずっと不思議でしたが、すでにある程度焼けてるので、火事のとき焼ける部分がいくらかでも少なくてすむから、という話を聞きました(真偽は確かめてませんが)。
私は焼板にすると、湿気を吸ったり吐いたりして調湿効果があり、家が長持ちするのかなぁと思ってました。こういう家は、プレハブメーカーの住宅と違って、なんか重厚な感じがするんですよね。姫路城のイメージとも合いますし。

参考
町家お色直し(ふれあいスタジオ79.3)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります
  

Posted by miki at 01:09Comments(0)TrackBack(0)歴史

2008年08月17日

「西の比叡」書写山円教寺が姫路にできた理由

円教寺 奥の院 開山堂(神戸観光壁紙写真集

昨日、西宮に行くために山陽電鉄直通特急に乗っていたら、高砂駅手前で列車が停まってしまいました。そのうち救急車やパトカーが来て、20分ぐらい列車は停まったまま。自動車との接触事故とのことで、運行再開後、東二見まで行って運転打ち切りとなりました。ぺちゃんこになった軽自動車は見ましたが、この事故だったのですね。

踏切で車立ち往生か 兵庫の特急衝突(MSN産経ニュース)

車内アナウンスがあるまで、事故があったとわからなかったぐらいごく普通に列車は停止しました。高砂駅手前だったので、すでに減速していたからかもしれません。亡くなられたかたには、ご冥福をお祈りしたいと思います。

さて、今日は書写山の話題です。総本山を比叡山延暦寺に持つ、天台宗の別格本山・書写山円教寺(姫路市)は、「西の比叡」とも言われ、比叡山大山と並んで天台の三大道場と言われます。

ところで、なんで姫路なの?

書写山に円教寺を開いたのは、性空(しょうくう)という人。名門・橘氏の一族に生まれ、36歳のとき出家しましたが、堕落した比叡山に愛想を尽かし再び出家、九州の山野で修行していました。あるとき、頭上にこれまでに見たことも無いような鮮やかな紫色の雲を見つけます。
やがてその紫雲がゆっくりと東に動き始めました。
性空が雲を追いかけて誘われるままに本土に向かいますが、雲がぴたりと止まったのが書写山の山上だったといいます。
性空が書写山を開山したのが57歳。98歳で天寿を全うするという遅咲きで生涯現役の人だったのですね。

その性空の死後つくられた性空上人の木製坐像が円教寺・奥の院 開山堂というところに鎮座しています。痛みがひどいこともあるのでしょうか、ふだんは一般公開されていません。
そしてこのたび、奈良の博物館の人が調査したら、坐像の中に本人の遺骨らしきものが見つかったそうです。

高僧像の頭部に遺骨か 兵庫・姫路の円教寺、X線撮影で判明(NIKKEI NET)
兵庫県姫路市の円教寺にある「性空上人坐像」(木製、高さ約90センチ、13世紀末)の頭部に、遺骨らしきものを収めたつぼが入っていることがエックス線撮影で分かり、奈良国立博物館奈良市)が15日発表した。
高僧の像に遺骨を収めたとされる例は、滋賀県大津市園城寺(三井寺)智証大師坐像(国宝、9―10世紀)が知られているが、科学的調査で確認されたものとしては最古級という。
性空が追いかけた雲が雪彦山(姫路市)の上に止まっていたら、今頃、姫路の小学生は、林間学舎でロッククライミングをしていたかもしれません。

P.S.
本日午後8時10分から、播磨太子町出身(姫路市出身との表記もあり)の竹澤健介選手(早稲田大学)が陸上男子10000メートル決勝に出場します。健闘を期待します。
竹澤選手を応援する垂れ幕(太子町)

参考
姫路育ちの証。親元離れて書写山で修行(ひめナビブログ)
雪彦山(Wikipedia) - 雪彦山(せっぴこさん)は兵庫県姫路市にある山。 弥彦山新潟県)、英彦山福岡県大分県)と共に日本三彦山として知られる修験道の地。日本百景ひょうごの森百選、兵庫50山、近畿100名山に選定されている。ロッククライミングの名所でもある。
紫雲を求めて(播磨伝説異聞)
北京五輪:報徳学園出身・男子陸上の竹沢選手ら、山田・西宮市長に抱負 /兵庫(毎日jp) - 竹沢選手は姫路市立大津中から報徳学園高に進み、高校駅伝で活躍。大学進学後、07、08年の箱根駅伝で区間賞を獲得した。箱根駅伝に出場経験のある現役大学生の五輪代表は44年ぶり。

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります
  

Posted by miki at 00:00Comments(0)TrackBack(0)歴史

2008年08月05日

姫路生まれ・黒田官兵衛を大河ドラマに



黒田官兵衛ゆかりの4市1町が集まり、姫路で黒田サミットが行われました。

官兵衛を大河ドラマに 姫路で「黒田サミット」(47NEWS)
豊臣秀吉軍師として、天下統一を支えたとされる武将・黒田官兵衛(如水)ゆかりの4市1町の関係者が3日、官兵衛の生まれ育った兵庫県姫路市で「黒田サミット」を開催。「官兵衛を大河ドラマの主役に」などと気勢を上げた。
(中略)
石見利勝姫路市長が「黒田サミットが目指すところは大河ドラマ」と強調。黒田藩のあった福岡市吉田宏市長や黒田家発祥の地とされる滋賀県木之本町の岩根博之町長らからも同様の発言が飛び出し、約800人の聴衆から拍手が起きた。
黒田官兵衛は豊臣秀吉も恐れたというほど頭がキレる名将。ある人は、姫路のイメージと合わないなどと言ってました。姫路は、野山を走り回っていた播磨生まれの宮本武蔵のイメージなのか?

黒田官兵衛の生涯を描いた、司馬遼太郎播磨灘物語などが有名。ちなみに司馬遼太郎の祖父は姫路市広畑の農家生まれだそうです。

参考
その時歴史が動かなかった(ひめナビブログ) - 一部の新聞の番組紹介コラムでは、黒田如水の大河ドラマ主役待望の声が載っていたようです。(ブログより)
黒田ブーム到来か?(ひめナビブログ)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります
  

Posted by miki at 00:00Comments(1)TrackBack(0)歴史

2008年06月09日

550基を確認済み。古墳の宝庫、姫路

壇場山古墳姫路市御国野町)の石棺

古墳は、土を盛り上げて造られた巨大なお墓。今から1800年前、3世紀から400年間は、古墳時代と呼ばれて古墳づくりに膨大なエネルギーをつぎ込んでいました。
古くから栄えた姫路地域でも、古墳づくりは盛んだったようで、これまでに550もの古墳が確認されているそうです。

播磨(旧播磨国)最大で、県下でも最大の古墳は、垂水にある五色塚古墳で、全長194m。次いで大きいのが姫路市御国野町の壇場山(だんじょうざん)古墳で、全長147mだそうです。これ、最近測り直したら従来言われていたよりも大きかったようで、ガイドブックによっては県下3位と書かれているものあるそうですが、現在は県下2位。

コンセルボブランドでもおなじみ岡野食品産業本社のすぐ近くにあるこんもりと緑で生い茂った壇場山古墳は、とくに公園化されているわけではありませんが、階段があって墳丘に簡単に登ることができます。

墳丘に登ると、前方後円墳を実感できる空間が存在し、地面に露出した石棺(せっかん。遺体を収めるために石で作られた棺)の一部も見ることができます。

過去に発掘作業が行われた記録が無いとのことで、今も様々な宝物が眠っているのかもしれません。

参考
長持形石棺(しんちゃんの日記) - 本物の長持形石棺は、播磨で見られます。姫路の御着駅の北側の檀場山古墳と山の越古墳です。(ブログより)← 本物の石棺を見ることができるというのは、結構貴重なことみたいですね。
101陽差しが淡く 壇上山古墳(歴史の風景-播磨伝説異聞)
姫路古墳群の中核施設(ひめナビブログ)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります
  

Posted by miki at 00:00Comments(0)TrackBack(1)歴史

2008年03月28日

日本初の産業道路「銀の馬車道」

日本玩具博物館姫路市香寺町

明治中期に生野銀山朝来市)から飾磨港(姫路市)まで鉱物を運んだ、わが国初の産業道路「銀の馬車道」が注目を集めています。

文化探訪 銀の馬車道の終着点・姫路を巡る(日経関西コンシェルジュ)
終着点の姫路市には、文明開化の明治から大正・昭和にかけて黎明(れいめい)期の日本をけん引した文化人が生まれ、公立の文化施設や個人の博物館や美術館も登場した。

日本玩具博物館水上村・川のほとりの美術館姫路市西中島)、歴史博物館姫路市本町)などの文化施設を紹介。文明開化をけん引してきた姫路の歴史が良くわかります。

これにちなんだグッズや、ラッピング電車までお目見えしています。

坑道梅酒や延べ板せんべい 銀の馬車道グッズ続々(神戸新聞)
姫路市のグループは、銀の延べ板をイメージし、木槌(きづち)で割って食べるせんべいを販売。酒販店や酒造会社は、銀山の坑道内で熟成した梅酒や、銀の馬車道を歩く花嫁行列や馬車道キャラクターをラベルにした日本酒をつくった。

播但線にラッピング電車 銀の馬車道PR(神戸新聞)
二両一編成で、側面に馬車のほか、姫路城兵庫県福崎町出身の民俗学者柳田国男の生家など沿線の名所のイラストを、正面には馬てい形のヘッドマーク風のイラストを描いた。一日平均六往復し、二〇一三年春まで運行する。「ラッピング電車が沿線をPRし、播但線の利用増にもつながれば」と同協議会。

近々、西播磨と統合される中播磨県民局最後の事業って感じなんですかね?

参考
県民局10→5局に削減。中播磨と西播磨は統合(ひめナビブログ)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります
  

Posted by miki at 00:43Comments(2)TrackBack(0)歴史

2008年02月02日

姫路で弥生時代の粘土掘り跡100基

姫路市苫編(とまみ)

姫路で、弥生土器の材料になった粘土を採った採掘抗の跡が100基も見つかったそうです。

弥生時代の粘土掘り跡100基発見 姫路(神戸新聞)
姫路市苫編、英賀保駅周辺遺跡の第四地点で、弥生土器の材料になった粘土を採ったとみられる穴(採掘坑)の跡が約百基見つかった。
(中略)
また、採掘坑を覆った地層には、奈良-平安時代のすずりや文字入りの土器、瓦などの遺物が含まれ、近くに寺や役所跡があったとみられる。鎌倉時代の掘立柱建物跡や溝も見つかった。
隣接地で県教委が進める発掘調査では、弥生末期の住居や平安期の建物などが確認されている。同博物館は「弥生時代から中世にかけて連綿と続いた大規模な集落群であったことが推測される」としている。

苫編は、旧家が山すその斜面に連なっています。かつて夢前川の本流だった大井川と苫編山に挟まれた泥湿地のため、水害を避けて高いところを敷地として選んだと言われています。それが土器を造るのにちょうどよい粘土質を生んだのでしょうか。

苫編には、秀吉に攻められ英賀御堂から移ってきた興宗寺(こうしゅうじ)や、苫道国主神社(とまみちくにぬしじんじゃ)があります。

参考
発掘調査情報(兵庫県立考古博物館) - 現在弥生時代後期の粘土採掘坑と中世の掘立柱建物跡を調査中である。特に粘土採掘坑は100箇所あまりが検出された。これだけの数がまとまってみつかるのは珍しい。(記事より)
掘っ立て柱建物跡16棟確認 姫路市・市之郷(神戸新聞) - 姫路は、掘れば何かしら出てきますね。
姫路は1日にしてならず(ひめナビブログ) - 姫路で遺跡を掘るのは容易です。江戸時代の遺跡なら、40センチ程度で出てくるそうです。(ブログより)
浄土真宗の拠点だった、海上交通都市・英賀(ひめナビブログ) - 英賀には浄土真宗の拠点があったのですが、秀吉に攻められて跡形もなくなりました。寺院は亀山の他、苫編にも移されました。
歴史紀行:英賀御堂(英賀神社) - 英賀落城の後、秀吉の命令によって、英賀御堂は亀山に移りました。御堂に次いで数多くの寺も、それぞれ他の土地に移されていきました。六坊のうち城下にあった三か寺は法専坊(ほうせんぼう)が東延末(ひがしのぶすえ)へ、残りの二か寺は竜野に、また有名な四か道場の興宗寺(こうしゅうじ)は苫編(とまみ)に、妙善寺(みょうぜんじ)は加茂(かも)に、光照寺(こうしょうじ)は二つに分かれて亀山と飾磨の天神に、西徳寺(さいとくじ)は都倉(とくら)へと移りました。(記事より)
難読な町名「苫編」(ひめナビブログ)
苫道国主神社(神社に行きた~い)
鬢櫛山~籾取山~苫編山(光画日記)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 00:00Comments(0)TrackBack(0)歴史

2007年11月29日

姫路最古の老舗は藤原鎌足の子孫が創業

伊勢屋本店姫路市二階町)の銘菓・玉椿

赤福船場吉兆など老舗食品関連企業のニュースが世間を賑わしています。老舗と言えば、姫路にも340年以上も前から暖簾を守る老舗がありますが、やはり食品関連企業でした。

最古は室町時代に創業 県内老舗企業ランキング(神戸新聞)

信用調査会社の帝国データバンクが調べた姫路の老舗企業上位3社は、ヤヱガキ酒造姫路市林田町)、今村産業姫路市飾磨区)、伊勢屋本店でした。

ヤヱガキ酒造の創業は今から340年以上前、江戸時代の1666年(寛文6年)。豊臣秀頼本多忠刻正室(奥さん)で、姫路城に住んでいたことのある千姫が亡くなった年でもあります。
大和国(奈良)から姫路・林田に移り住み、酒屋と材木商を始めた創業者長谷川栄雅さんは、藤原鎌足33代目の子孫だそうです。

なお、姫路で3番目に古い伊勢屋本店の創業は1702年(元禄15年)で、同じく和菓子を製造してきた1707年創業の赤福よりも歴史があるのですね。

参考
タイガー・ウッズも愛飲 姫路のお酒(ひめナビブログ) - ヤヱガキ酒造の話題。
英語で姫路城をガイド(ひめナビブログ) - 2位、今村産業の社長さんは、姫路城英語ガイドの発案でも有名。
玉椿(ひめナビブログ)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります
  

Posted by miki at 23:13Comments(0)TrackBack(0)歴史

2007年10月28日

全国50万人の犠牲者を追悼

太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔姫路市西延末

一昨日、太平洋戦争の空襲で亡くなった全国の一般市民を悼む、全国空爆犠牲者追悼平和祈念式が、手柄山の慰霊塔前でありました。

空爆犠牲者を悼む 姫路で「平和祈念式」(神戸新聞)
政府を代表して戸谷好秀総務審議官が「今日の平和と繁栄は尊い犠牲の上に成り立つ。不戦の誓いを堅持する」と福田康夫首相の追悼の言葉を代読した。

来年は福田首相ご本人にも、再び姫路に来ていただきたいと思います。

参考
太平洋戦全国空爆戦没者慰霊追悼平和祈念祭(北野実活動日誌)
民間慰霊の中心・姫路。慰霊塔初の補修完了(ひめナビブログ)
福田元官房長官・手柄山で合掌(ひめナビブログ) - 2年前に来られています。

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります
  

Posted by miki at 00:00Comments(0)TrackBack(0)歴史

2007年07月25日

浄土真宗の拠点だった、海上交通都市・英賀

夢前川下流地域(姫路市)

鎌倉時代親鸞によって開かれた浄土真宗は、現在、寺院総数2万、僧侶数5万、信者数1200万と、日本最大の仏教教団です。
しかし室町時代には、他勢力に押されて今ほどの勢力はありませんでした。当時の宗主・蓮如は、播磨に浄土真宗を広めるのによいところはないかと探し、交通の便のよい英賀の城下町を布教の中心地にしました。
英賀は、夢前川の河口付近にあり、現在の飾磨区広畑区の境界付近。140年間にわたって繁栄し、東は的形、西は室津までを領地としていたそうです。

姫路ファンより
英賀城(別名:岩繋(いわつき)城ともいう)は室町時代の中頃、赤松一族によって造られましたが、嘉吉(かきつ)元年(1441年)5月、城主の祐尚(すけなお)が亡くなり、恋浜(現在の白浜町)の城主・三木氏が移り、大きな城に建て替え、以後、約140年間、東は的形から西は室津までを領土とし、英賀は栄えました。

しかしその後、豊臣秀吉がこの地を攻め、現在その面影はほとんどありません。
英賀にあった寺院は、亀山東延末龍野苫編加茂天神都倉に移されました。

参考
英賀城(松岡肇) - 作家・司馬遼太郎の祖父は、広畑に住み、司馬氏自身も播州門徒の末裔と称しています。姫路文学館には司馬遼太郎記念室があります。
新選組の刀傷が姫路にある理由(ひめナビブログ) - 英賀御坊(本徳寺)の移転先で、現在の浄土真宗(本願寺派)の拠点、亀山本徳寺について。

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 00:00Comments(2)TrackBack(0)歴史

2007年07月23日

米国に、人道に対する罪を裁く権限はない

郷土史ひめじ姫路市教育委員会編)

一昨日、図書館で「郷土史ひめじ」を借りて読んでいたのですが、なかなか面白い。
平成15年の改訂に寄せた高岡前姫路市教育長の言葉によれば、この本は、昭和54年当時の小学校5年生の社会科学習の参考資料として出版されたそうです。
みなさんがこの本を使って勉強することによって、姫路の歴史をさらに深く知るとともに、「ふるさと姫路の発展のために、わたしたちもがんばろうじゃないか」という郷土「ひめじ」を愛する気持ちを強く持って、さらに美しく、誇れる市にしてくれることを期待します。

普段の生活のなかで、姫路のことを自虐的・否定的に語る場面が多くあります。播州人の自虐趣味だとわかっている場合は救われるのですが、若い人の中には、真に受けてしまうこともあるように思います。
姫路の歴史を正しく学んだうえで否定的に語るならまだしかたがないのですが、「よく知らない」ということもあると思います。

先日、「教科書が教えない歴史2」(産経新聞社)を読んでいたら、姫路出身の清瀬一郎弁護士を紹介していました。東京裁判東條英機主任弁護人も務めた政治家です。
太平洋戦争後、日本の戦争責任者を裁いた東京裁判で、開廷早々、「アメリカの軍事法廷には平和に対する罪、人道に対する罪を裁く権限はない」と述べ、日本人としてせいいっぱいの抵抗をしました。

自身のブログ・丸坊主日記でおなじみ、姫路の戸井田徹代議士の父(戸井田三郎氏)は、この清瀬一郎氏の秘書を務めたことがあるそうです。

姫路は紀元前2~1万年頃から人が住んでいた歴史ある地域です。気候が温暖で住みやすい土地といいますが、昔はそういうところしか人は住めなかったわけですから、それだけ歴史がある貴重な地域です。多くの先人の努力や蓄積も他の地域以上に受けているわけですから、たまには先人に対する敬意や感謝を払うべく、姫路の歴史を紐解くのも悪くないと思います。

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 00:00Comments(2)TrackBack(0)歴史

2007年07月16日

播磨とは

播磨摂津国境(須磨浦山上遊園

「播磨(はりま)」という場合、兵庫県に統合されるまでの飾磨県があった旧播磨国の地域を指す場合と、西播磨中播磨東播磨北播磨の4つの県民局を合わせた地域を指す場合があるように思います。

神戸市垂水区西区は、昭和16年・22年に神戸市に編入されるまで、播磨の明石郡に属していました。そのため、神戸市には播磨と摂津の国境があります。
昨日行った、須磨浦山上遊園のリフトは、深い谷を渡って行くのですが、山上遊園側をはりま駅、ロープウェイ駅側をせっつ駅と呼び、その中間に、国境線が引いてあります。

山陽道に属していた播磨と、畿内に属していた摂津は、古代律令制制定時(701年)以来、長年にわたり国の骨格でした。その国境が曖昧になったのは、ごく最近のことです。

昭和16年に神戸市が国境を超えて垂水を編入する土台を作ったのは、明治9年の府県大統合。明治4年の廃藩置県の時には姫路県、明石県も存在し、また、名称を変え飾磨県として明治9年まで播磨国のエリアは維持されました。しかし明治9年に旧兵庫県(摂津の一部)が播磨と但馬、淡路を編入して現在の兵庫県に。畿内と山陽道を跨ぎ、かつ5つもの国を統合したのは不思議な気がします。

なぜ兵庫県は不自然に大きいか(近代姫路の財界・政界)によれば、徳川幕府と親しい姫路、豊かな播磨、国の戦略といった理由があったようです。

ともあれ、須磨浦山上遊園は、摂津と播磨の街並みと明石海峡大橋瀬戸内海の絶景を一望でき、「大播磨」を実感できる素晴らしいロケーションです。

参考
播磨とは
いつも新しい神戸(玉岡かおる:語る) - 県庁を置くなら、西国探題として繁栄を誇った大都市・姫路こそが妥当だった。ところが姫路はあいにく三百年間、徳川家の譜代大名が治めた国である。幕府色を払拭し、新しい国家を築こうとする新政府には、長い歴史を持つ姫路より、神戸の何もなさこそが都合よかったのだろう。(記事より)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 11:21Comments(0)TrackBack(0)歴史

2007年06月07日

幻のコールサイン「JODR」

石見元秀像(手柄山中央公園

手柄山中央公園の頂上付近、太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔の北側に、銅像が建っています。リンカーンの銅像か?はたまたクラーク博士の銅像か?などと言っていてはいけません。姫路市名誉市民で元姫路市長・石見元秀の銅像です。

銅像には、次のように彫られています。
姫路市名誉市民 勲三等 石見元秀氏は、明治33年姫路市飾西に生まる
(中略)
昭和21年衆望を荷い、戦災焦土化した姫路市の市長に就任、爾来(じらい)二十有余年その職にあり、遠大な構想のもと独創的なる都市復興を実行し、大手前通りの建設、手柄山中央公園の開設、名古山霊園の創始、全国戦没者慰霊塔の建立等大姫路の雄図を確立せり

姫路偉人列伝には姫路に県庁を持ってこようとしたこともあったと書かれています。

いまでこそFM GENKIという姫路のラジオ局がありますが、石見元秀市長時代の1952年にラジオ放送局の構想があり、「姫路市営放送」として予備免許を交付されて開局寸前まで行っていました。
しかし市長と市議会との対立で期限までに放送施設を建設することができず、予備免許が取り消され、既に割り当てられていたコールサイン「JODR」はラジオ新潟に与えられました。
都市モノレールの先駆けとして1965年東京モノレールに次いで日本で2番目に開業した姫路市営モノレールに対し、さらなる建設推進を掲げましたが市長選で落選してしまいました。

石見元秀氏の銅像には、このとき建設反対を掲げて当選した吉田豊信(元姫路市長)の名が「発起人」として彫ってあります。そしてこのモノレール建設には一言も触れられていません。

モノレールについては不運もあったようですが、実行力・独創性・先見性3つ揃った名物市長で、姫路での石見ブランドは根強いものがありそうです。

P.S.
JR山陽本線の前身・山陽鉄道は、当初姫路からたつの市(旧龍野市)に向かう計画でした。ところが、住民が反対。山陽鉄道はずっと南を走りました。おかげで今でも旧龍野市はローカル路線の本竜野駅に頼らざるをえません。
当時の龍野の人は、その後の鉄道の重要性に気づく先見性がなかったのだと思います。もし石見元秀が龍野にいたら、どうしたでしょうか。
伊丹市は、空港反対の旗をやっと降ろしました空港格下げもなんとか先延ばしになりました。こういうところで明暗を分けていくんでしょうね。

参考
日本の銅像探偵団 - 見当たらなかったので、取り敢えず画像投稿掲示板に投稿しておきました。
空襲犠牲者を追悼する唯一の建物(ひめナビブログ)
幻の“姫路市営ラジオ”の話。(迷馬の隠れ家)
予備免許を交付されながら開局できなかった放送局(wikipedia)
モノレール構想と推移(麗しの姫路モノレール) - 姫路を中心に瀬戸内海と鳥取を結ぶ壮大な構想だったようです。

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 00:00Comments(0)TrackBack(3)歴史

2007年05月05日

日本最古の寺院が姫路にあった?

県外からも多くの人が訪れる太陽公園姫路市打越

昨日は、久しぶりに石をテーマにしたテーマパーク・太陽公園に行きました。

以前は、知る人ぞ知る隠れ家のようなマイナーな観光スポットでしたが、最近はずいぶんメジャーになったみたいで、「なにわ」「神戸」「和歌山」「和泉」のような県外ナンバーの車を簡単に見つけることができるようになりました。東のほうのナンバーが多いのは、おそらく関西エリアのテレビ局で紹介されたからではないかと思います。

それにしてもここの凱旋門は美しい。何で美しいのか考えたのですが、パリローマの凱旋門は大都会の真ん中にあるのですが、ここの凱旋門は山の中にあるため、緑との調和が美しいのだと思います。

隣接地には、2009年春完成予定の白鳥城とヨーロピアンバケーションタウンの工事が着々と進行していました。パンフレットにも「2009年春姫路に“ロマンティック街道”が出現! 太陽公園でドイツ旅行が体験できます」と大々的に謳っています。

ところで数々の世界の有名遺産のレプリカの中に、日本の鶏足寺というのがあります。聞きなれないこのお寺は、一体何なのでしょうか?

太陽公園は峰相山という山の斜面にあるのですが、この山一帯に、その昔、大変勢力を持った寺院があったそうです。

峰相山と鶏足寺(姫路市地域夢プラン)
峰相山鶏足寺は、新羅の王子の創建といわれ、奈良時代には隆盛を極め、やがて鎌倉時代の末期には衰微した。天正六年(1587)中国攻めの羽柴秀吉に抵抗したため、全山焼き討ちにあい栄枯盛衰の長い歴史を閉じた。

鶏足寺は、神功皇后三韓征伐で新羅から連れ帰った王子が581年に創建した、日本最古の寺院。
豊臣秀吉が播磨を平定しに来たとき、鶏足寺が逆らったため、軍師(参謀)の黒田孝高(勘兵衛)に焼き払わせました。

つまり、太陽公園内にある鶏足寺は、このあたりにあった日本最古の寺院を一部復元したもので、他のレプリカとは若干意味合いが異なります。

お寺といえば奈良京都を思い浮かべますが、平城京は710年と、姫路に寺院ができてから130年も後の話です。
聖徳太子が574年に生まれていますが、姫路で修行していたかもしれません。国内には他に寺院がなかったわけですから・・。

P.S.
太陽公園の石碑には以下の記述があります。
峰相の霊場
鶏足寺は新羅の微叱己知王子が、西暦581年、この峰相の地に開創し、日本最古の縁起と最大の寺観を誇ったが、その後長年月の間には興隆衰退もあり、天正6年の災火した後、荒廃亡據と化して既に400有余年を経過した。開山王子と数千の僧侶、従僧、従者を祀る事久しく絶えたので、ここに霊場を建設してその御霊をお祀りしたものである。

鶏足寺の由来
西暦200年 神功皇后三韓の異国を攻め給し時、新羅国の質子王子を取り帰られ、その王子が峰相山にのぼって草庵をつくり千手陀羅尼を誦された。
西暦581年 質子王子峰相山に鶏足寺を創建し入滅された。
西暦767年 当時の鶏足寺は、仏法繁昌して金堂・講堂・法華堂・常行堂・五大尊堂・鐘楼・一切経蔵・勧請神九所の社壇・五重三重の二基の塔・宝蔵一宇・僧房300余あったが、貞和年間(859年)同寺は衰退が始まった。
西暦1578年8月10日 羽柴秀吉の率いる中国征討軍の先鋒だった黒田勘兵衛の軍によって火を放たれて焼失した。
西暦1978年8月10日 阿弥陀如来と観世音菩薩並に峰相の地にねむる人々の霊魂をお祀りすると共に、世界人類の平和を祈念して、姫路市打越395番地、門口堅蔵が、ここに鶏足寺を再建した。

参考
峰相山・鶏足寺跡(書写近郊のお薦めエリア) - 播磨の古文書「峰相記」によると、日本で最初に建てられたお寺を「鶏足寺」といい、日本に3つある「鶏足寺」の中で、最初に建てられたのが、峰相山の鶏足寺だと記されています。(中略)また、この辺りにはかつて渡来人が集団で住み、その特殊技術を発揮していたと伝わる所で、打越から石倉にかけての山腹や山麓には、須恵器や瓦などの窯跡が多く残されています。私も打越緑台で、プチ発掘をやってみましたが、器の破片をGETできました。(記事より)
凱旋門対決。姫路vsローマ(ひめナビブログ)
世界遺産が姫路に集結(ひめナビブログ)
夢とロマンの太陽公園(ひめナビブログ)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 00:00Comments(2)TrackBack(0)歴史

2007年04月13日

姫路は1日にしてならず

コロッセオローマ

ローマは、人口300万人近くの大都会にも関わらず地下鉄が2本しかありません。地下に多くの遺跡が埋まっているため、地下鉄の工事が容易ではないためです。
姫路も地下鉄がありませんが、日本を代表する歴史都市のため、地下鉄は掘らないほうがいいでしょう。
姫路で遺跡を掘るのは容易です。江戸時代の遺跡なら、40センチ程度で出てくるそうです。

姫路市主任文化財専門員 秋枝 芳さん(asahi.com)
秋枝さんは、これまでに200以上の遺跡の発掘調査に携わってきたが、「江戸の遺跡は、1メートル以上掘らないと出てこないと思っている人が多い。でも、意外に深く掘らなくても出て来る身近なものなんです」と話す。姫路の場合、40センチ程度掘れば見つかることが多い。場所も国道2号より北側だけでなく、南側にもたくさん残っているという。

姫路には遺跡が1300以上ありますが、掘れば堀ったでいくらでも出るでしょうね。

姫路市埋蔵文化財センター四郷町)では、史跡見学会など数々のイベントを開催しています。姫路の歴史の奥深さを感じることができる貴重なイベントが多くあります。

参考
ローマに2本しか地下鉄が無い理由(ひめナビブログ)
発掘あるある!? 考古学体験(ひめナビブログ)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 00:00Comments(0)TrackBack(1)歴史

2007年03月01日

その時歴史が動かなかった



姫路城で生まれた黒田如水(勘兵衛、孝高)が、昨日のNHKその時歴史が動いたの主役でした。

天下は我が掌中にあり ~黒田如水・もうひとつの関ヶ原~(NHK)

秀吉軍師として優れた黒田如水が、秀吉の死後、自らも天下取りに動いたが、息子である長政の予想外の働きもあり関が原の戦いの短期決着の結果、失敗に終わったという話。

黒田如水は、「歴史が動かなかった」が故に、豊臣秀吉の名脇役だったわけですが、徳川家康に代わって天下を治める歴史まで、あと一歩という位置にいただけでなく、千載一遇のチャンスもあったわけですね。

P.S.
一部の新聞の番組紹介コラムでは、黒田如水の大河ドラマ主役待望の声が載っていたようです。

参考
黒田ブーム到来か?(ひめナビブログ)
「黒田官兵衛」で町おこし──城まつりで武者行列(日経ネット関西版) - 顕彰会の初代会長となる中元さんは「姫路は官兵衛によって東西南北の交通と経済の要衝の地として再認識された地だ。(中略)現在20人以上が会員登録している同会はNHKの大河ドラマで官兵衛を採り上げるように働きかけ、全国に「播州の黒田武士」を再認識してもらおうと夢を膨らませている。(記事より)
播磨の黒田武士顕彰会

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 00:00Comments(0)TrackBack(0)歴史

2007年02月24日

聖徳太子の地球儀

斑鳩寺播磨太子町)の春会式

聖徳太子ゆかりの斑鳩寺で、春会式があり、数多くの露店で賑わいました。

笑顔あふれる稚児行列 太子・斑鳩寺で春会式(神戸新聞)
聖徳太子の命日に当たる二十二日、太子町鵤の斑鳩寺(大谷康文住職)で、縁日法要の春会式(はるえしき)が始まった。愛らしい衣装に身を包む子どもたちの稚児行列があり、大勢の参拝客でにぎわった。

ところで、このお寺には聖徳太子の地球儀と呼ばれるソフトボール大の地球儀があります。よみうりテレビ系列の特命リサーチ200Xでも取り上げられ、科学的に分析されました。(聖徳太子が残したオーパーツ謎の地球儀の秘密を探れ!

その結果、江戸時代に作られた可能性が高いことがわかったとか。聖徳太子が作ったわけではなさそうです。しかし、ムー大陸らしきものがあったり、謎が多いですね。

参考
聖徳太子の地球儀(聖徳太子と斑鳩の杜)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 00:00Comments(0)TrackBack(1)歴史

2006年12月09日

姫路古墳群の中核施設

 姫路市埋蔵文化財センター姫路市四郷町

姫路市内には旧石器時代から江戸時代まで、1000ヶ所の遺跡があります。これまで掘り出された土器や金属製品は、手柄山中央公園内の保管庫や小学校の空き教室などに保管していました。1年前に姫路市埋蔵文化財センターがオープンし、こうした発掘物は、まとめてここに保管されるようになりました。

センターの隣接地に宮山古墳、近くには中鈴山古墳や長塚古墳、阿保古墳群、見野古墳群などがあります。中でも見野古墳群の10号墳は、姫路の石舞台と呼ばれ、6号墳は一つの墳丘内に二つの石室がある「双室墳」で、全国でも20例という珍しい形態だそうです。

参考
阿保遺跡で発掘体験(ひめナビブログ)
国の重要文化財・宮山古墳の出土品(ひめナビブログ)
「姫路の石舞台」見野古墳群(姫路立命会)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 17:28Comments(0)TrackBack(2)歴史

2006年11月21日

お堂は売れません

 書写山圓教寺・護法堂神戸観光壁紙写真集

紅葉祭りが行われた書写山の紅葉ですが、どの程度なのかなぁ?と思ってブログ検索してたら、面白い記事を発見しました。

書写山円教寺と紅葉@兵庫県姫路市書写(草津・守山・野洲から出かけよう(滋賀県))

ボランティアガイドの人と話をしてたのですが、トムクルーズ
がかなりここのお堂を気に入ったらしく、初め「このお堂を売ってくれ」と言ってきたそうで、それは無理だと伝えるとお堂の設計図をくれと言ってきたそうです。なので、アメリカのどこかにひょっとしたらこれと全く同じ形のトムクルーズが所有するお堂があるのかも??
トムクルーズが欲しがったと言われる護法堂の、向かいにある護法堂拝殿は「弁慶の学問所」とも言われています。書写山には、武蔵坊弁慶(幼名:鬼若丸)が少年時代(7歳から10年間)を過ごしたという伝説があります。まだ義経に出会う前ですね。
その時に護法堂拝殿で使ったという勉強机が、食道(じきどう)に展示されています。

P.S.
売ることはできなくても、貸別荘ぐらいにすれば、時々トムクルーズが来てくれるだろうに。もったいない。

参考
書写山圓教寺 奥の院
そうだ 書写山、行こう。(ひめナビブログ)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 00:36Comments(2)TrackBack(2)歴史

2006年08月16日

民間慰霊の中心・姫路。慰霊塔初の補修完了

 手柄山・慰霊塔(姫路市西延末

昨日は、東洋大姫路阪神甲子園球場で黙とうを捧げ(ベスト8に進出)、小泉総理大臣靖国神社参拝した終戦記念日でした。
ところで、今年は姫路にある慰霊塔(太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔)の補修工事が半世紀ぶりに行われ、終戦記念日を前に完了しました。

姫路の空襲慰霊塔 半世紀ぶり化粧直し 平和への誓い新たに(イザ!)
本土空爆の犠牲になった民間人を全国規模で慰霊する国内唯一の施設。
(中略)
2度の空襲で約500人が亡くなった姫路市。「軍人・軍属の犠牲者には全国規模の慰霊施設があるのに、民間人は全く顧みられていない」。そんな声を受けて戦後、市長を務めていた故石見元秀さんが慰霊塔の建立を提唱。

軍人は、靖国神社や兵庫縣姫路護國神社姫路市本町)ほか全国約50の護国神社に祭られますが、民間人の施設は無かったのですね。総務省の資料によれば、手柄山の慰霊塔には全国50万人の死没者が慰霊されています。

靖国参拝に熱心だった小泉総理大臣は、終戦記念日にも、慰霊塔建立記念日(10月26日)にも手柄山に来られることはありませんでしたが、次期首相には是非、手柄山に来ていただきたいものです。

参考
今日は敗戦記念日(山田歯科医院Blog)
手柄山考(趣味、趣向、思考) - 小泉総理、麻生前総務大臣等の献花もみられました。(ブログより)
福田元官房長官・手柄山で合掌(ひめナビブログ) - 昨年暮れ、福田元官房長官 が手柄山に来られました。
空襲犠牲者を追悼する唯一の建物 (ひめナビブログ)
東洋大姫路ベスト8進出!! (N-diary)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 00:44Comments(0)TrackBack(2)歴史

2006年06月28日

難読な町名「苫編」

 苫道国主神社(姫路市苫編

姫路観光文化検定試験のテキスト、姫路観光文化字典(姫路商工会議所編)に、難読な町名として紹介されている「苫編」は、「とまみ」と読みます。
JR英賀保駅から北西、苫編山の麓に集落があり、苫道国主神社や、秀吉英賀城攻めのあと英賀から移ってきた興宗寺があります。

苫編山から見る景色は絶景で、晴れた日には特定重要港湾姫路港家島まで瀬戸内海を見渡すことができます。

「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ・・」と百人一首にも詠われた「苫」(とま)を編むのを業とした人々が住んでいたので、この地名がついたといわれています。

北海道にも「苫」がつく苫小牧がありますが、こちらは、「沼の奥にある川」を意味する「トマコマナイ」というアイヌ語から来ているようで、まったく関係ないようです。

参考
鬢櫛山〜籾取山〜苫編山(光画日記)
姫路アーバンハイキング 苫編山塊縦走
苫編山縦走 (山行記録)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 00:04Comments(2)TrackBack(0)歴史

2006年06月25日

西脇村と庄村が合併し「西庄」に

 鬢櫛(びんぐし)山を望む(姫路市西庄

姫路循環器病センターがある姫路市西庄(さいしょう)に住んでいる親戚の家のことを、私の母親は「西脇(にしわき)の○○さん」と呼んでいました。
西脇といえば、西脇市しか思いつかなくて不思議に思っていましたが、明治6年まで西庄は、「西脇」と「庄(しょう)」という2つの村だったようです。東京三菱銀行とUFJ銀行が一緒になって三菱東京UFJ銀行になったように、2つの旧村の地名からついた名前が「西庄」なんですね。

このあたりは、旧夢前川の本流があったところで、その西の脇にある村落ということで西脇村という名称に。庄村は、祇園社(牛頭天王社)の元宮・総本社である(ただし、京都の八坂神社と本社争いをしている)広峯神社姫路市広峰山)の荘園だったことからその名前がついたとされています。

参考
姫路の町名 - 播磨地名研究会編著、神戸新聞総合出版センター版。
姫路の病院(ひめナビブログ) - 姫路循環器病センターは、心臓病治療でわが国最高ランクの評価。
姫路は宝の山(ひめナビブログ) - 広峯神社について。
広峯神社(wikipedia)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 07:32Comments(0)TrackBack(1)歴史

2006年06月19日

阿保遺跡で発掘体験

 阿保遺跡竪穴住居跡(姫路市阿保

姫路駅前で発掘調査中(ひめナビブログ)で、「発掘作業体験ができる観光ツアー」なんてのも考えられないかと書いてましたが、阿保遺跡で発掘体験イベントがあったので長男と行ってきました。

阿保遺跡は弥生期から室町期までの複合遺跡で、奈良から平安初期の掘っ立て柱建物跡が見つかっています。そして先日、弥生期の竪穴住居跡も見つかりました。

弥生中期の竪穴住居跡 存在裏付け 阿保遺跡(神戸新聞)
姫路市埋蔵文化財センター
は十五日、同市阿保の阿保遺跡で弥生時代中期(約二千年前)の竪穴住居跡が見つかった、と発表した。同遺跡からはこれまでの発掘調査で、弥生中期の土器片が多数出土しているが、住居跡の確認は初めて。同センターは「弥生時代の集落の存在が裏付けられた」としている。

発掘体験イベントには老若男女40名ほどの参加者があり、かめや高杯(たかつき)などの弥生土器サヌカイト製の包丁などを参加者の手で出土しました。(うちの長男も発掘してました
この手のイベントは姫路市では初めてとのことでしたが、人気が高いようなので、今後も開催されるのではないでしょうか。
なお、24日(土)には、13:30から同じ場所で竪穴住居跡の説明会があるみたいです。

参考
ローマに2本しか地下鉄が無い理由(ひめナビブログ)
国の重要文化財・宮山古墳の出土品(ひめナビブログ)
姫路は宝の山(ひめナビブログ)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  


Posted by miki at 00:20Comments(0)TrackBack(0)歴史

2006年06月18日

湯沢山・茶くれん寺

 法輪寺姫路市井ノ口)。湯沢山・茶くれん寺の別名を持つ。

姫路市立荒川小学校の北隣に、「ちゃくれん寺」というお寺があります。私が小学校時代は、別になんとも思わなかったのですが、後に「茶くれん寺」、つまり「お茶をくれない寺」という意味だと知り、「そうか、ケチな寺なのか」と思っていました。

最近になって知ったことですが、豊臣秀吉英賀城(姫路市飾磨区)攻めの時に立ち寄り、茶を所望したのに白湯(さゆ)しか出てこなかったため、「湯沢山(たくさん)、茶くれん寺か」と大笑いして立ち去ったため、茶くれん寺と言われるようになったそうです。

秀吉があまりに軽装だったので、気づかなかったそうで、決してケチなお寺ではないのですね。

P.S.
英賀城は、姫路市立英賀保小学校山陽電車夢前川駅の間あたりにあった、戦国・播磨三大城の1つ。あとの2つは御着城姫路市御国野町)と三木城三木市)。

参考
新選組の刀傷が姫路にある理由 - 新選組ゆかりの亀山本徳寺姫路市亀山)は、秀吉が英賀城を攻めるまでは英賀本徳寺として英賀にありました。

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 06:25Comments(2)TrackBack(0)歴史

2006年05月20日

黒田ブーム到来か?

エピソードで読む黒田官兵衛 PHP文庫

姫路生まれの黒田官兵衛(孝高、如水とも)は、豊臣秀吉の名参謀として天下統一に貢献。あまりの知恵の鋭さに秀吉が警戒したと言うほどで、ファンが多い。
先祖を姫路に持つ司馬遼太郎の歴史小説・播磨灘物語では主人公となっています。

野心なき名参謀 黒田官兵衛 播磨灘物語(未来の成功のためのレッスン)

この黒田官兵衛を見直す動きがあるようです。

播磨の知将 黒田官兵衛に光を 姫路で顕彰会設立へ(神戸新聞)

黒田節は九州民謡として全国に知られているが、元をたどれば播磨に行き着く。この地から天下を狙った武将が出たことを多くの人に知ってほしい」


NHK大河の影響で、宮本武蔵ブームに沸いた姫路ですが、今度は黒田武士(黒田節)ブームになるでしょうか。

P.S.
本日予定されていた、祭り屋台in姫路の本番は、明日21日に延期とか。(参考 祭り屋台in姫路のサイト

参考
黒田官兵衛(Bob's Bar)
黒田如水はなぜ兵を挙げたか(ジョグの記録と映画と本のお話)
竹中半兵衛と黒田官兵衛(PHP文庫)
黒田官兵衛―秀吉も一目おいた天下人の器(PHP文庫)
黒田如水(吉川英治歴史時代文庫)
黒田如水(小学館文庫―時代・歴史傑作シリーズ)
参謀―黒田官兵衛という生き方(小学館文庫―時代・歴史傑作シリーズ)

← 1日1回クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 12:05Comments(0)TrackBack(2)歴史

2006年03月08日

姫路城の奇跡



太平洋戦争姫路城の白壁は非常に目立ち、また陸軍の部隊が置かれていた姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることが明らかだったため、黒く染めた網で城の主要な部分を覆い隠しましたが、1945年7月3日に大空襲にあい、城内にも着弾します。しかし、本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、城本体は奇跡的に炎上を免れました。
なぜ、姫路城は爆撃されなかったのか。

戦火逃れた奇跡の遺産 姫路城(asahi.com)によると、

1989年、姫路獨協大副学長だった四宮満さんは、防衛庁米国大使館などを訪ね、膨大な米軍資料から手がかりを探したり、元搭乗員に聞きましたが「城の存在すら知らなかった」という証言ばかり。四宮さんの結論は「単なる偶然」。

しかし、朝日新聞の記者があらためて取材したところ、米軍の爆撃機B29の機長で、当時24歳だったアーサー・トムズさんは、「編隊は、みな同じコースを飛んで爆撃した。城を避けるように計画されていたとしか思えない。証拠はないけれど」と語っていたと言います。

「姫路城の奇跡」の解明は、後世の歴史家に委ねられるのか、それともこのまま闇の中なのか。

参考
国際観光都市の秘密(ひめナビブログ) - 明治新政府に解体されそうになった姫路城を救ったのは・・

← クリックして頂けるとRankが上がります  

Posted by miki at 00:01Comments(7)TrackBack(0)歴史